わずか4節で13行程度の短い話、マリア(妹)とマルタ(姉)の二人の姉妹の話がルカ書に出てきます。 エルサレムからほど近いベタニアに住んでいるマルタと妹マリアそしてその弟ラザロのところにイエスと弟子たちが訪れます。イエスとラザロは親しい間柄です。 マルタはイエスの接待に忙しく動いています。そして「主よ、私が主のもてなしのために忙しく働いています。妹のマリアにもすこし手伝ってくれるように言ってくれませんか」と言います。しかしイエスは「マルタよ、マリアは自身にとっていちばんよいやり方を選んだのだ。それをとりあげてはならない」 と言います。 たったこれだけの話なのですが、この話を「マルタを諫(いさ)めるイエス」と読むと、マリアが正しくてマルタは正しくないのかと受けとれる話になってしまいます。 しかしイエスの意図は違うところにあります。 イエスはマルタよりもマリアが正しいとは言っていません。「マリアにはマリアに合った信仰の形がある。彼女にはそれがいちばんよいやり方なのだ」と言っているのです。 当然「マルタにもマルタにふさわしい信仰の形があり、マルタがマリアのように行動することがふさわしいのではない」とおっしゃっているのです。 |
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ただ イエスのこの言葉で話が終わってしまうなら読者にとっては物足りない話です。 マルタの信仰はどのように理解すべきなのでしょうか? 食事の接待(ルカ10章38〜42)の話はヨハネ書(11章)の話につづきます。そこに姉のマルタがイエスに訴えるすばらしい信仰の話が出てきます。二つの福音書にまたがる物語の意味が分かってきます。 私(ホームページ筆写)はその部分を読んでマルタの信仰に感動しました。 ※ 二人のイエスに対して示す信仰の形は異なります。それを聖書は説明しているように思えます。 参考:ルカによる福音10章38〜42 小嶋潤「聖書小事典」社会思想社 p242-244(マリヤとマルタ) → マルタとマリア (1) (2) (3) |