他の宗教とくに仏教の入門書など読んでいて 私たちがキリスト教を理解するうえでヒントを 得られることがあります。 たとえば仏教には十一面観音が出てきます。 その仏像は頭のまわりに十もの顔をつけている のですが、実は十一の別々の観音がいるのではなく 、 観音が人間の前に現れるときに、ある時は慈悲の 顔をして現われ、またある時は怒りの憤怒の顔をで 現われるのです。 そのような考えから仏像に全部で十一の顔をつけて 表現しているのです。しかしそのいずれも別の観音で はなくひとつの観音なのだというのです。 私たちキリスト教信者の場合は「父と子と聖霊のみ 名によって」と祈りの最初に唱えますが、同じに理解 できます。 つまり、それと同じに理解すると、神さまが私たち に現れるとき、あるときは『天の父』として現われる のです。そしてあるときは『イエス・キリスト』の形 で私たちの前に来られます。そしてある場合には聖霊 として私たちに姿を現してくれるのです。 そのどれも同じ神さまなのです。三人の神さまがい るのではなく、いずれも同じ一人の神さまで、現れる 形が違うのだということなのです。 |
.ところで仏教の場合、異なる形で現われるという 考え方が、それだけにとどまらず。変化観音とか 三十三観音など様々な仏の形をとり、それぞれの仏 が個別にいるのだ、という信仰になってしまって いるようです。 参考 松涛弘道(まつなみこうどう) 「日本の仏様を知る事典」p.98 日本文芸社 |