心の貧しき者

「さいわいなるかな心の貧しき人」(マタイ 5・3)

 イエスがガリラヤ湖畔の山上で説教されたときの
ことばです。でも意味がわかりにくいですね。
「心貧しい人」とはどんな人なのか? 罪びとを指
す言葉でしょうか? あるいは 愚かな人 とか 心
がいやしい人 のことでしょうか?
さらにその人が「さいわいである」と言っているのは
どうしてでしょうか?

これは英語でも同じ表現になっています。
 Blessed are the poor in spirit,
 for  theirs is the kingdom of heaven.
(祝福されるのは心の貧しい人である、つまり心の貧
しい人は祝福される)と表現されています。
疑問は解けません。この部分の解釈に英語を使う人も
同じように悩んでいるかもれません。

 ここで「貧しい」という語を他の言葉に置き換えて
みます。そして「貧しい」というのは「十分でない」
「飢え乾いている」「満たされていない」という意味
にとるとすっと意味が通じます。
つまり lack(不足)です。 poor(貧乏)ではありません。
でも、単に空腹だとか 欲しいものが手に入らない、
といったことだけでもなさそうです。

「心の貧しき人」とは「必要なものが与えられず、
心が満たされない人」のことです。それは飢え渇きと
いった物理的な低レベルの欲求でなく、愛情や希望と
のような精神レベルの欠乏そして充足の話です。
求めて与えられるとき、満たされる心は幸せを得るこ
とができます。
そう言われれば 明快に納得できることですね。

 ところが、実はここでイエスが仰ることは、もっと
深いものがあるのです。

 マザー・テレサの手記に、何回も出てくるシーン。
そこには誰にも心をかけられることなく死んでゆく「死
にゆく人々」 が描かれています。
彼らはシスターたちの看護を受けて、最期の時に
「ありがとうシスター。あなたに神のご加護がありますよ
うに」と言って、幸せそうに亡くなっていきます。

「心の貧しき」 という言葉は、このシーンを知っていると
よくわかると思います。

(マタイ 5.3) はたった2行の言葉です。
 心の貧しき人たちは、さいわいである。
 天国はかれらのものである。