有名なイエスのたとえ話。
もらった財産を使いつくして、無一文になって
帰ってきた息子を父が暖かく迎えてくれた。と
いう話ですが、実は「父の深い愛」の話ではあ
りません。
ルカの15章には「放蕩息子」の前に「迷った
羊(15・4-6)」と「紛失した銀貨(15・8-10)」の
話があります。これらの三つの話は実は同じこ
とを言っています。「放蕩息子」を前の二つの
話と同じように読むことが大切です。
つまり「失った羊」「失った銀貨」「失った
息子」というように読むことです。息子が主人
公の話として読むとわかりにくくなってしまい
ます。父親の立場に立って読むことです。
父親にすれば息子はもう帰ってこない、死ん
だものと思ってあきらめるしかなかったのが、
ある日突然、その息子が帰ってきたわけです。
文中の「死んでいたものが生き返った」という
言葉はその気持ちをよく表しています。
また「私に子やぎ一匹もくださりませんでし
た」という兄への、一見不公平な処遇(?)はな
ぜでしょうか。
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それは父親にとって弟は「失われた羊」で
あり、兄は「ほっておいても心配のない 99匹
の羊」を表しているからです。だから失われ
た一匹がみつかったのだから喜ぶのは当然だ
と父が言っているわけです。
それから、このときの、心から悔い改める
気持ちを表している息子の言葉は、まさに私
たちが唱える祈りのことばです。
「父よ、私は天に対しても、あなたにむかっ
ても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼
ばれる資格はありません」
イエスは「(このように)罪人がひとりで
も悔い改めるなら、悔い改めを必要としない
99人の正しい人にもまさる大きな喜びが天に
ある。(15・7) 」と言っています。
父親(父である神)の喜びとはこの喜びの
ことなのです。
これが放蕩息子の話です。
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