ぶどう園の労働者  [PDF] 

 ぶどう園の作業に労働者を雇った農場主をたと
えに使ったイエスの話。(マタイ 20-1〜16)
 朝から一日中働いた者に対しても、夕方近くの
一時間だけ働いた者に対しても、農場主は同じ金
額の賃金を払い、最初に来た者がそのことに不平
を述べる、という話です。
 誰が考えても、一時間だけ働いたものよりも一
日中働いた者が、多くを受け取るのが当然のよう
に思われます。どのように理解すればよいでしょ
うか。

「労働者たち」というのは私たち人間のこと、賃
金を払ってくださる「農場主」は「神」のことで
す。すると「朝から一日中」「一時間だけ」とい
うのは、与えられた人生の時間と理解できます。
そして「賃金」は人生への「報酬」(天国で与え
られる神の愛)と考えるとわかってきます。

 生まれて一日しか生きることができなかった子
供がいます。
 まだ名前も与えられず、神様のことも知らず、
目が開かないので親の顔を見ることもなく、ひと
言も発しないまま、ただ与えられた人生を一生懸
命に生きて逝ってしまいました。
 この小さな生命は、神様に受け入れてもらえる
のでしょうか。
 

 八十歳まで生きた人がいます。
 毎日祈りをささげ、神をたたえ、多くのよいこ
とを行なって人を救い、尊敬され感謝されて亡く
なりました。
 この人は天国に行って子供の何百倍もの神の愛
を受けるのでしょうか。

 もともと神の愛は「無限」ですから、それを「同
じ」 とか「多い少ない」とか比較すること自体意
味がありません。労働者たちが受け取った「同じ
賃金」「同じ神の愛」とは、天国で受ける神の愛
が無限であることを指しています。
 そして神は「私は、一時間しか働かなかったも
のにも、あなた(一日働いて報酬を受取った労働
者)と同様に払ってやりたいのだ」(マタイ20-14) と
さえおっしゃっています。つまり子供でも老人で
も神の前では同じなのです。

 神は「人生の長さに関係なく、すべての者に無
限の恵みを与えること」を欲しておられます。

このたとえ話の意味はこのように理解できます。