聖書の中で徴税人が何人か出てきます。
使徒のマタイも徴税人でした。ザアカイとい
う人物も徴税人として出てきます。
徴税人はローマのために仲間から税をとり、
さらにその行為により私腹をこやすものもいて、
人間として正しいものではないとされ、たいへ
ん嫌われ蔑(さげす)まれていました。
しかしそれは現在の税務署の人間が嫌われて
いるのとは少し状況が異なるようです。
テレビ放送などで見たことがあると思います。
イスラエルで最も宗教的に熱心なユダヤ教徒で
ある『正統派』とよばれる人々、ひげを剃って
はいけないという律法を守って、長いひげを伸
ばし、夏でもくるぶしまである黒い長衣を身に
つけています。
彼らユダヤ教徒は税金は「神にのみ支払われ
るもの」とし、税金を納めていません。
それを征服者であるローマに収めるために同
胞のユダヤ人から取り立て、イエスはそんな彼
らと食事をしているわけです。
ローマの支配下にあったころのユダヤ人にと
って、最大の屈辱はローマ皇帝に『十分の一税』
を払わねばならなかったことだといわれます。
ユダヤに伝統的な神政政治の観念からいえば、
主は神のみであって、税金を支払うということ
は、皇帝を神と同一視することに等しいのです。
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さて、パリサイ人がイエスをことばの罠にかけ
ようとして「カイザルに税金を納めてもよいか」
と問う場面があります。(マタイ 22-15〜22)
このことばのやりとりはこのようなユダヤ人の
宗教的な背景を理解しているとわかります。
そのときイエスは
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に
納めよ」と答えました。
つまり、神とカイザル、いいかえれば宗教と政治
は別の次元の問題だとしたのです。
民衆からすれば、イエスがローマの支配を打ち
破って、ユダヤ人を解放する存在として期待して
いたのが裏切られた形なのです。
イエスはこのことで各宗派を敵としただけでな
く、愛国的大衆をも敵に回すことになってしまっ
たのです。
イエスが十字架にかけられることになった原因
のひとつがここにあります。
そのように理解すると「カイザルのものは……」
という場面がたいへん重要な部分だとわかります。
黄字部分 村松剛「教養としてのキリスト教」P158講談社
現代新書より引用
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